東北応援

2013年3月11日 (月)

2年たって思う

本日で東日本大震災から2年が経ちました。

朝から繰り返されていた震災特番のテレビで被災者の方が、「風化」という意味が分からない。なぜなら震災は今もなお身近にあり続けるので忘れる暇がないから-という声を寄せていらっしゃいました。
ここ東北に住んでいるとそのように感じる人が多いのではないでしょうか。

2年前に故郷の福島県双葉郡富岡町を追われた大叔母は、いまだに仙台でわたしと暮らしています。
毎日彼女と顔を合わせるわたしも震災や原発事故を忘れる暇など全くありません。

震災後「絆」という言葉が繰り返し使われました。
家族と助け合ったり、友人や知人の支援に救われたことで平時では気付きにくい繋がりを強く感じたことは確かです。
しかしここ最近「絆」とは後生大事に抱え続けるべきものではないのでは?と考えるようになりました。

震災が起きた時に、わたしはもう小さな子供ではなく家族を守っていかなければならない存在なのだと初めて気付かせられました。
30歳を過ぎたいい大人なのだから当たり前かもしれませんが、祖父が建てた家で、祖母や母とのんびり暮らしていたわたしには厳しい現実の中での新たな発見でした。
家族のために食料を調達しなければならない、行方不明の親戚の安否を確認しなければならない、ガスが通じない中でどうやって入浴させればよいのか考えなくてはならない、危険なことが起こらないか情報収集を怠ってはいけない、体調や精神状態に常に気を配らなければならない…などなど。
挙げてはきりがありませんが、一人で決断して行動して説得して、自分自身を強く持って行わなければならない事ばかりでした。

親戚やご近所の方、友人知人と助け合って行かなければならない事もたくさんあるでしょうが、やはり最後は自分自身の責任なのです。
(それは守るべき家族がいる場合も、一人暮らしの場合も全く同様です。)

震災から時間が経てば経つほど、それぞれの生活が大事になります。あの時助けてくれた親戚や友人や知人がいつまでも助け続けてくれると期待することこそが甘えなのだと思いました。
彼らにもそれぞれの生活があり、家族があります。物理的に震災を忘れられないわたしと同じ感覚を求めること自体土台無理のあることだったのです。

そのような「絆」を求めるよりも、自分の体調や精神状態を健やかに保ち、わたししか頼ることのできない家族を支えて行き、自分自身も納得できるような生き方を続けて行くことの方がずっと大事だと今は考えます。

見ず知らずの100人を救おうと考えることよりも、身近なひとりを確実に幸せにして、なおかつ自分も幸福に暮らして行くことの方が健全だと感じるのです。
落ち着いた生活や、安定した気持ちこそが正常な判断力や、広い視野を持つことを可能にするのではないでしょうか。
余裕がなければ他人にやさしくなどできるはずもありません。

とりとめなくなってしまいましたが、あの日から2年たった今だからこそ、見つめなおして出した結論です。

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2012年5月24日 (木)

もう変わらない日常

震災後半年ほど、このページで様々な心情を綴って来ました。
その時感じた憤りや悲しみや、伝えたいと思ったことなどなど。
たくさんの励ましもいただき、新たな出会いもあり、同じ気持ちの人たちと共感し合えたりと良いこともたくさんありました。

しかし、いつの日からか震災に関連する様々なことを記すことが億劫で、無意味なものに思えてくるようになりました。
わたしがこの場所でいくら訴えたところで、福島は取り残され、宮城や岩手の沿岸部は忘れ去られ、毎日毎日更新される膨大なニュースに、震災のことなど、原発事故のことなど、それらで苦しんでいる人のことなど、無かったことのように上書きされて消されて行くような感覚を覚えました。

震災から丸一年の2012年3月11日にも、特に書き記したいと思う事柄が浮かびませんでした。

震災後に変化せざるを得なくなった生活はもう日常になってしまい、嫌でも辛くても受け入れて暮らして行くしかないため、それらを敢えて取り上げることが苦痛を伴う作業になってしまったのかもしれません。

最近なぜか、警戒区域内にあった大叔母の家をよく思い出すのです。
海が近く、子供のころは夏休みになると毎日海水浴に出かけていました。ちょうど川の水が海に注ぐ場所があり、大興奮で遊びまわっていたことを思い出します。その時に履いていた赤いリボンのついたサンダルは、大叔母が用意してくれたものでしたが、少しヒールがあり大人っぽいデザインで、裏口の土間にこしらえた下駄箱に入っているのを見るだけで心が躍りました。

大叔母のお茶のお弟子さんや、近所の人たちがいつもたくさんの野菜を届けてくれるため、家はいつも様々な食料品で溢れていました。そんな時はホットプレートで大量の野菜と、少しの肉を焼き、急ごしらえのバーベキューを行いました。近くの産直所で売っているじゅうねん(エゴマの実)ドレッシングでそれらをいただくのが、大叔母のお気に入りでした。

玄関脇に小さな獅子脅しがあり、獅子脅しが傾く様子を見たくて何度も何度も水を流したり、竹でできた柄杓が珍しく、その柄杓で水をまくことが楽しみだったり。

もちろん自分では覚えていませんが、わたしが初めて立って歩いたのは、大叔母の家だったと繰り返し聞かされたこと。

初めて近しい人を亡くすという経験もしました。大叔父を見送ったのもあの家でした。

つい最近まで、またそこに戻れるような気持ちでいたのでしょうか。
自分の頭の中でどのような変化があったのかさっぱりわかりませんが、今頃になってようやく、
「ああ大叔母とあの家でそういう時間を過ごすことはもう二度とないのだな。」
と感じるようになったのです。

ここに来て、被災地と言われる地域とそれ以外の地域の人たちとの気持ちの違いが、さらに開いたように感じられます。

結局のところわたしの生活は、震災後から何も変化していないのです。
電気と水道とガスは復旧しましたが、警戒区域から避難した大叔母は住み慣れた自宅に帰ることができないまま仙台に暮らし、震災を機に認知症が進んでしまった祖母の症状も、回復することはないのです。
たくさんの親戚たちも家を亡くし、農業や畜産業などの大地に根差した尊い仕事を手放さざるを得ない状況に追いやられました。

様々な辛いことを、日常として受け入れて暮らして行くほかない人たちばかりです。

訴える声が小さくなったからと言って、傷が癒えたわけでも、物事が好転したわけでもないのです。

前を向いて生きて行かなくてはならないと理屈では分かっていても、どうしても2011年3月11日以前の暮らしに思いを馳せずにはいられないのです。

震災や原発事故の経験をしていない人、それらによって心に傷を負っていない人を責める気持ちは一切ありません。何としてでも理解を得よう、支援を取り付けようとすることは、無理な話だと重々分かっています。
でもせめて「自分の想像を超えた辛い経験をした人がいる」という認識だけは持ち続けてもらえたら。
理解できないかもしれず、分かち合うことも難しいかもしれないけれど、「被災地の人たちの苦しみはこれから一生続く」ということだけでも、心の片隅に留めておいてもらえないかと願ってしまうのです。

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2011年12月11日 (日)

それぞれの9ヵ月

震災から今日で9カ月経ちました。

わたしには震災の記憶が薄くなるということはありません。
ちょっと忘れるということもありません。

福島第一原発の警戒区域から避難している大叔母を引き取り、共に寝起きし、毎日顔を合わすようになったからです。

東電の補償問題、以前の住まいより小さな居住空間、はじめて見た変わり果てた自分の家…。

大叔母の生活は、経験していない人には想像もできない様々なことがらで溢れています。

実は先月の23日に大叔母は一時帰宅へと出かけて行きました。

はじめて目の当たりにする変わり果てた住み慣れた街や家見て、もう二度と帰ることはないのだと頭で理解せざるを得なくなったようでした。

もちろん気持ちはついて生きようがありません。

だから、精神的にとても苦しい毎日を送っています。

気を張って暮らしていた震災後の数カ月よりも、今の方がふさぎこむことが多くなったように見受けられます。

わたしの大叔母だけではなく、今でも、むしろ今だからこそ辛い思いに胸が引き裂かれそうになっている被災者の方々がたくさんいらっしゃるのです。

そして、そんな大叔母を支える母やわたしにもなかなか安息の日は訪れません。

わたしたちのように震災の被害が小さかったけれども、より大きな被害を追った人を支えなければならない人や、自身は被災しなかったけれども被災者を支え続けなければならなくなった人のことを考えると、日本中にあの震災や原発事故がきっかけでそれまでの生活を奪われてしまった人が無数に存在するのです。

大きな被害にあわれた方が大変なことはもちろんですが、その先には表には現れない「被災者を支え続ける人」がいることも忘れてはいけないと思った本日11日でした。

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2011年9月15日 (木)

できること

大震災が起こった直後は友人知人から、何か出来ることがあれば言ってほしいとたくさんの申し出を受けました。
でも家も無事で家族も無事だったわたしは、特に何も必要としないからもっと困っている被災者の人たちを助けしてほしいと思い、そう伝えてきました。

9月10日の河北新報に「東日本大震災から半年 日本覆う感情抑圧」という興味深い記事がありました。

「自分よりつらい人がいる」「自分はまだ良い方」と被災した人が感じるのは、通常の災害では一時的な現象にとどまるそうですが、今回の震災では今までにない広がりを見せているという内容でした。

このような「自分はまだまし」と思う感情を「下方比較」と呼ぶそうです。
「下方比較」の弊害は「その人の中にある感情の表出を抑圧してしまうこと」で、自分自身の喪失感を「まだましだ」と我慢し、向き合わずにいることで悲しみが沈殿していくことにあるそうです。
より深刻なのが「感情の『否認』。抑圧どころか、感情自体にふたをし、自分が悲しみの中にいることをモニターできなくなる。その先に予想されるのはうつであり、非常に危険な状態です」
とのこと。
確かにわたしにとっても思い当たるふしがたくさんあり、ああそういう感情だったのか…。と今になってやっと冷静に考えることができるようになりました。

そのような状態では、何か手伝えることは?何が必要か?と聞かれても即座には答えられず、「わたしなんか恵まれているから何もいらない。」という気持ちにすらなっていました。

しかし、手を差し伸べようとしてくれている友人知人の行為を無にしたくなく、考え抜いた末に出た結論が、震災直後仙台で入手できなかった小麦粉(特に強力粉)を送ってもらい、パンを作って周りの人に届けようということでした。
このことにしても、何もできない無力な自分を持て余し、せめてパンくらい作って自分自身の存在する意義を感じたいというわたしの自己満足だったのかもしれません。

こんなに近くでひどい災害にあっている人が無数にいるのに、何もできない、ボランティアにも行けない(震災後デイサービスも閉鎖されたため、1日中認知症の祖母をみていなければならなかったため。)というつらさが大きくなりすぎて、自分が被災者であるということに向き合うことが一切できなかったように思われます。

震災直後報道でよく耳にしたのが、
「東北の人は我慢強いから、何が必要か聞いても何もいらないと言われる。被災地以外の人間は何をしたらよいかわからない」
というものでした。
しかし、今になって思うのです。
「我慢強いから」ではなく「わたしはまだましだから」だったのではないかと。
これほどの大きな災害を今まで経験したことが無いことから、被災者の心理や感情がどの様に揺れ動くのかということに対し、少々鈍感だった気がするのです。

甚大な被害が無いといわれている仙台市内でも、704名の方が無くなり、22,077棟の家が全壊、15,026棟の家が大規模半壊、38,814棟が半壊という状況です。(8月31日時点)
そのような中でもし運よく助かったとしたら、「何もいらない」と言ってしまうことは不思議ではない、むしろ当たり前のことではないでしょうか。

「何が必要か聞いても答えてくれない」ではなく、
「何を必要としているか聞きだす」ことが必要なのではないでしょうか。

今現在も被災地では大変な状況に置かれている方がたくさんいらっしゃいます。
もし状況と時間が許すのならば、まずはじっくりと話を聞くことから初めて欲しいと願います。

わたしの大叔母も原発事故から20日間逃げ続けたのちに、仙台の我が家に引き取りましたが、まさに3日3晩語り通しでした。
一緒に逃げている人は同じ境遇の被災者ばかりだから語り聞かせることもなかったけれど、比較的被害の軽かった我々には、自分の大変な体験談をとにかく聞いてほしくてしょうがないという状況でした。
とにかく話して話して話しつくし、異常な興奮状態が収まり、やっとゆっくり眠れるようになったように見受けられました。

被災してつらい気持ちを負っている人は、たくさんたくさんいます。
被害の大小にかかわらず、皆が自分の気持ちを吐き出し、向き合える日が来るために手を貸してほしいと強く願います。

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2011年9月14日 (水)

今までの尺度

震災から半年が過ぎました。

9月11日の朝から震災関連の番組をずっと見ていたら、涙が止まらなくなりました。
辛かったからとか悲しかったからとか大変だったからとか色々な気持ちがあるのでしょうが、何が原因で涙が出てきたのかはわかりませんでした。

あの日から不安定な気持ちのまま過ごしているということの現れなのでしょう。
あの時にたくさん心に受けたダメージが、何かをきっかけにしてあふれ出してしまうように感じるのです。

被災しても、近しい人を亡くしても、未だ被災地に住み続けなければならないにしても、わたしたちは日常生活を送っていかなければなりません。
テレビを見て笑うこともあれば、友達と飲みに行くこともある。楽しいこともたくさんあります。
しかし、もう以前とまったく同じようには笑えないのです。
笑った後でも心の中には常に消えない不安や悲しみを抱えて生きていかなければならないのです。

笑ったり喜んだり、日々の生活を楽しもうとしているわたし達を見て
「もう被災地は元通りになり、傷も癒えたようだ。」
と感じる人もいるかもしれません。

でもちょっと自分に置き換えて想像してみてほしいのです。
どんなに辛いことがあっても、日々生きていれば時には笑うこともあったのではないでしょうか。
気分転換に楽しみを見つけようと考えることもあったのではないでしょうか。

被災者だからといって毎日めそめそ泣き続けているわけではないし、娯楽を求めたからといって傷が癒えたわけではないのです。
人間の感情はそんなに単純ではありません。

今までだれも経験したことのないような恐ろしい体験と、大きな大きな悲しみを負ったのだから、気持ちが落ち着くまでに、今までの尺度では測れないほどの長い時間がかかるのは至極当然なことだと思うのです。

「早く気持ちを切り替えて前に進む」
なんてたやすくできません。
ちょっと前向きになって、後退して、また前向きになれて、でもまた後退して…。
こんな具合にしか気持ちは進んでいけません。

被災地以外の方には理解しがたいことも多々あるかもしれませんが、気長にお付き合いいただけたらと願います。

少し記憶が薄れてしまった方もいるかもしれませんが、本当に本当にありえない程の大きな災害(及び人災)だったのですから。

震災前の基準や尺度は一度捨て去って、もう一度考えてみてほしいと思います。

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2011年9月 6日 (火)

わののわベルギーナイト!

第1回わののわ開催に先駆けて、東京にてわののわスピンオフイベントが開催されることになりました。

わたしの修業先だった神田の「シャン・ドゥ・ソレイユ」にてベルギー料理とベルギービールとうつわに囲まれながら過ごす夕べという、なんとも素敵な時間が過ごせます。

今回うつわの出店でご協力いただくのは仙台紫山の「つむぎ」さんと、つむぎさんのお知り合いでもある福島の浪江町で作陶されていた亀田大介さんです。
個人的に浪江町には大変思い入れがあるので、亀田さんにお会いするのもとても楽しみです。

つむぎさんからはお料理を盛るお皿も貸出いただきます。
いつもとは違う作家さんのお皿に盛られたベルギー料理を見るのもまた楽しみ!

わたしは友人たちと自動車で日帰り強行日程での参加です。
残念ですがビールは飲めない…。
まあ今まで浴びるほど飲んできたのだから、今回は良しとしましょう。

詳細は下記の公式サイトをご連絡ください!
わののわのメールからお申込みいただいても、お店に直接「わののわベルギーナイト」参加です!とお伝えいただいても大丈夫です。

ぜひぜひお近くでお時間の許す方はご参加くださいませ。

http://wanonowa.net

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ついに第一回!!

前回の第0回目が大変ご好評をいただきました、「うつわのチカラのわ~わののわ~」の第1回目が開催されることになりました!

日程は10月8日9日10日です!
詳細は公式サイトをご覧ください!
今回はオープニングパーティーあり、トークショーありの盛りだくさんで、前回より仙台の皆様に楽しんでいただけるようになっております。

http://wanonowa.net

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2011年8月25日 (木)

それぞれの気持ち

今朝の河北新報の記事には非常に考えさせられました。

以下引用です。

福島第1原発事故の影響で、福島県産のモモの価格が急落している。出荷最盛期のお盆の贈答用需要が目立って減り、モモの余剰感が出てきたためだ。福島県は放射線量の調査を行って安全性をアピールしているが、消費者の敬遠ムードは収まっていない。価格は低迷し、利益が出ない状況に農家は困惑している。

 福島県桑折町谷地の農家羽根田八千代さん(50)方ではこの夏、自宅近くで経営する直売所「はねだ桃園」の売り上げが例年の半分以下に減った。贈答用のモモの注文がなくなり、農園には大量のモモが余った。「捨てるよりはまし」と、約3分の1の価格で販売している。
 羽根田さんは「畑の木にはモモがなるから売るしかない。でも、売っても売っても、利益は出ない」と嘆く。
 福島市のスーパー「いちい鎌田店」では、福島産の贈答用のモモが山形産の半値以下で並ぶ。青果担当の杉山正さん(44)は「値段を同じにしたら、県内産は他県産に勝てない。地元のモモ農家を応援したいが、どうにもならない」と漏らす。
 福島県は7月から、出荷前に品種ごとに抽出して放射線量を調査。これまで、伊達市のモモから1キログラム当たり161ベクレルが検出されたことはあったが、国の暫定基準値(500ベクレル)を超えたモモはない。今回の売り行き不振に、県園芸課は「風評被害だ」と強調する。
 ただ、県による安全の「お墨付き」にも、市場の見方は厳しい。
 モモ農家約1500戸が加盟する伊達みらい農協によると、ことしは味も形も良く、宣伝効果もあって7月の販売は好調だった。ところが、7月9日にセシウムを含んだ牛肉の問題が発覚してから、状況が急変した。
 農産物に対する放射線量調査は信頼を失い、大手スーパーでは福島産のモモを取り扱わなくなった。スーパーが農協から購入する「あかつき」は例年、1キログラム400円程度だったのに、約300円にまで落ち込んだ。
 伊達みらい農協の担当者の芳賀武志さん(30)は「苦しい状況の中で持ちこたえていたのに、セシウム汚染牛の問題でとどめを刺された。今の価格は採算割れ寸前で、持ち直すめども立っていない」と話す。
 同農協は風評被害による価格下落だとして、東京電力に損害賠償を請求するため、被害額の算定を進めている。

2011年08月25日木曜日(河北新報朝刊より)

現在でも福島にはたくさんの人々が暮らし続けていて、生活して行くために農業を営んでいます。

原発警戒区域などの立ち入り禁止地区以外の地域で、農産物を作ってはいけないと政府から禁止されているわけではないのです。

その様な状況であれば、彼らが福島で作った農産物を売ることは極めて当然のことで、責められるべきことではないということもれっきとした事実です。

わたしより大分年上の世代だと、インターネット上のニュースも全く目にすることもないので、購読している新聞や日々試聴しているテレビ番組によっては、「市場に出回っている農産物には身体に影響の出る放射性物質は含まれていない」と認識されている人も少なくないでしょう。

どちらの場合も政府の発表通りのことを信じ実行しているだけであって、放射能汚染について政府や自治体の発表通りのことを信じられない人たちが、彼らを非難することはやはりできないと思うのです。

しかし、福島や宮城の生産者の方でも100%安全であると言いきれるものしか出荷したくないという強い思いから、独自に放射線量の検査を行っている方もたくさんいらっしゃいますし、自治体によっても安全を証明するために多額のお金をかけて、政府から要請されていない検査を行ったり、厳しい基準を設けているところもあります。

本当に全ての対応がまちまちなのです。

食品の放射能汚染問題が未だグレーゾーンである限り、白か黒かをはっきりさせることを論じ、お互いに非難し合うのは我々一般の素人のすべきことではないと感じます。
まだ白黒はっきりつかないグレーが多い状況であればもう、各個人の気持ちに任せるしかないのではないでしょうか。

わたし自身小さな子供が口にすることも多い「菓子」を提供する店舗を開業予定です。全ての人に同じ考えを持てと言っているのではなく、わたし個人の気持ちの中には残念ながら放射能汚染への懐疑心が巣食って消えないので、世の中に出回っている食品の中でも最も厳しい基準で検査され出荷されているものしか扱いたくないという気持ちにしかなれないため、そうするのだとしか言えないのです。

その様な食品ばかりを扱えば、原価はおのずと上がり価格も多少なりとも上がってしまうかもしれません。しかし、わたしと似た考えを持ち、他より少々値段が高くてもわたしの作った菓子を買いたいと思ってくれる方がいる限り、わたしは自分の気持ちに正直に食品を選別して行くほかないのです。

各々の気持ちを尊重しあうこと、放射能の知識を深めるためにもっと勉強することくらいしか、今のわたし達にできることはないのかもしれません。

だからひとつお願いです。

福島や宮城の農畜産物を人に差し上げるときは、少し考えてみてください。

福島や宮城の農畜産物をいただいた時に露骨に嫌な顔はしないでください。すぐさま拒絶しないでください。

当事者に近いところにいるからこそ両方の辛さがわかります。他県の人たちの理解が必要なのです。

福島や宮城の現状は、もしかしたらあなたの住んでいる地域で起こったことだったかもしれないのです。

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2011年8月24日 (水)

罪の意識

この夏は富岡町から避難している大叔母の元へ、福島に住んでいる人、住んでいた人からたくさんのお中元が届きました。
その中には野菜や果物など福島の農産物も含まれていました。

毎年福島の桃を送ってくださっていた福島在住だった方が、「今年は抵抗があるでしょうから…。」との言葉と共に山梨の桃を送ってくださいました。

とても複雑な気持ちになりました。

「風評被害から福島の農畜産物を守る」と言うのは簡単です。しかし今の時点では何が風評か真実かはっきりしないことが多すぎるのです。

牛肉からセシウムが検出された件に関しても、わたし達が知ったのは市場に出回った後のことでした。根も葉もないことに振り回されているのではなく、食品からの放射性物質検出問題は後手後手に回っていることは事実なのです。

その様な状態で福島や宮城の農畜産物を購入しない消費者が悪者のように扱われるのはお門違いです。

そもそも「暫定基準値」とは食品の安全基準を定めた食品衛生法に、放射能の基準がないために取られた緊急措置でしかないのです。
検査方法についても、農作物の土壌から検査しているところもあれば、そうでないところもあり、牛肉についても出荷前の全頭検査が義務付けられているわけでもありません。

全てが曖昧模糊な状態で「信じろ」と言われても信じられないのは当然のことでしょう。

しかし、福島や宮城で農畜産業に携わっている人や、それらの農畜産物を食べて育ってきた人がどのような気持ちでいるかも考えてみてほしいのです。

何回も繰り返していますが、わたしの親戚のほとんどが福島県の浜通り地方で農畜産業を営んでいました。
わたしは米を購入したことが生まれてから一度も無く、浜通りで親戚たちが作った米だけを食べて生きて来ました。野菜も牛乳も同じくたくさんいただいて来ました。

それらが口にできなくなった悔しさは言い表せません。
怒りで震えるという感情が自分の中で今でもでどんどん大きくなっています。

この夏我が家に福島から届いた野菜や果物は全て母と祖母と大叔母が食べました。
少しでも不安だと感じるなら無理して口にしなくてよいと母に言われたのです。

「わたし達は60歳以上だからもう気にしないけれど、あなたは30代前半でまだ子供を生むかもしれないのだから、嫌だと少しでも感じるならばやめなさい。口にするものを選ぶ自由があるのだから、罪悪感を感じる必要もない。」

この言葉でわたしの心は少し救われました。
慣れ親しんだ土地の昔馴染みの人たちが一生懸命作った野菜や果物を口にしたくないと思うこと自体が、重い重い罪の様に感じていたからです。

福島と関係なく暮らしていた人たちが、今の時点で福島の農畜産物を避けるのとはわけが違う罪の意識でした。

福島の人でも感じ方の違いがあるのは確かです。
前出の方の様に「山梨の桃」を送ってくださる方もいれば、いつもと変わらず「福島の桃」を送ってくださる方もいました。

こんな時に福島の物を送ってくるなんて非常識だという受け手もいれば、こんな時だからこそ食べて応援したいという人もいるでしょう。

放射性物質が食品に与える影響や検査方法があいまいなように、人々の感じ方もまたそれぞれ異なるのです。

あいまいであるからこそ、お互いに無理強いや強制をすることだけは避け、憎しみが生まれないことを願うしかありません。

作っている農畜産物を出荷できなくなった人も、それらを安心して食べられなくなった人も、もともとは同じ被害者のはずなのです。

原発事故の被害者同士がいがみ合っては元も子もないのです。

目指すべきは皆同じ、安全な土地と安心な食べ物を再び取り戻すことだけのはずなのですから。

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2011年8月22日 (月)

福島で暮らすということ

ご無沙汰しております。

大分間が空いてしまいました。

先月末の原発警戒区域への一時帰宅の後、疲労と暑さから母が体調を崩してしまい一週間ほど寝込んでしまいました。

その後母が良くなったと思ったら、次は大叔母が寝込み、大叔母も回復したと思ったらまたぶり返す…という感じで先週いっぱいまで病人を抱えて暮らしていました。

母も大叔母も大分良くなりましたのでご心配なく。

しかし、震災からもう間もなく半月が経とうとしていますが全く落ち着かない日が続いています。

先日南相馬市にある我が家のお墓を見に叔父や叔母が出かけて行きました。

警戒区域と目と鼻の先にあるお寺のため、住職さんはまだ小さい子供を抱えているので宮城県の南部の名取市に移り住み、毎日南相馬のお寺に1時間半かけて通勤しているそうです。

我が家の墓は見るも無残に倒れてお参りすることはできなかったそうです。祖母方のお墓は津波で流されてしまい、大叔母方のお墓は原発の10キロ圏内にあり立ち入ることもできません。

こんなお盆を迎える日が来るとは夢にも思いませんでした。

そんな中でも福島の浜通りではまだ人が住み暮らしているのです。

農業ができなくなった親戚は心身ともに不調をきたしてしまいました。

乳牛を育てている親戚は毎日搾乳しては牛乳を廃棄する生活を続けています。

震災前の検診で肺の再検査を伝えられた親戚は、震災後再検査を受けることもできず避難生活を始め、やっと再就職が決まった先の健康診断でやはり肺に異常が見つかり、肺がんの末期だと診断されたそうです。

福島は危険だから離れればよい、日本国中どこへでも移り住めるのだから。という人がいますが本当にそうでしょうか。

ローンが残っている家がある。

金銭的に余裕がない。

他の地域に移り住むことが難しい老人を抱えている。

職場を離れられない。

そして、何より地元に愛着がある。

皆様々な理由を抱えています。

放射能値が高いとはいえ、政府から立ち入り禁止区域に指定されているわけではなく、家も庭もペットも何もかもが震災前と同じようにそこにあれば、何とか住み続けて行きたいと思うのは自然な感情だと思うのです。

何か言うべきことがあるのであれば、福島から出て行かない人へではなく、東電や政府へなのではないでしょうか。

そして多くの人が他人事ではなく、明日にも自分の故郷が福島と同じ状態になる可能性があることをきちんと実感してほしいと強く願います。

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